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第4話 愛なき新居と冷たい義務

Autor: ひなた翠
last update Fecha de publicación: 2026-10-16 14:51:08

 見合い前夜、僕のヒートに巻き込まれた壱知が僕を抱き、うなじを噛んだ。一夜の過ちから、三週間が過ぎた。

 翌日の見合いは、壱知の側から断りを入れたと聞いている。番の印を刻んだ責任を取ると、壱知は両家の親の前で静かに告げた。東雲の家と僕の家の間で、話はあっという間にまとまった。一週間後には区役所に婚姻届を出し、僕たちは夫婦になった。

 いまは都心にそびえるタワーマンションの最上階で、二人で暮らしている。初めてのヒートのあとから微熱と倦怠感が続き、僕は壱知の会社の総務課を休んだままだ。デスクに置いてきた卓上カレンダーは、五月の頁を開いたまま埃をかぶっているはずだ。

 浴室から、シャワーの湯が床を打つ低い響きが伝わってきた。壱知が朝の支度をしている間に、僕はダイニングで一人きりの朝食を済ませた。トーストを半分齧り、温かい紅茶で喉の奥へ流し込む。カップの縁に残る渋い香りが、鼻の奥で薄く揺れていた。バターの濃い匂いが胃の底を重く押し上げ、残りのパンを皿に戻した。コンロの上の小鍋では、家政婦が作り置きしてくれた野菜スープが静かに冷めていく。

 椅子から立ち上がると、膝が頼りなく揺れる。テーブルの縁に手をつき、ふらつく足でリビングの窓辺へ向かう。

 分厚いペアガラスの向こうで、梅雨の雨が街を濡らしていた。鉛色の空から落ちる雨粒が、ガラスに幾筋もの線を描いて流れ落ちていく。額をガラスに寄せると、ひんやりとした硬さが皮膚に伝わり、雨粒の打ちつける微かな振動が骨の奥に響いた。空調で二十四度に保たれた部屋の中に、雨の匂いはガラスの外側に閉じこめられている。

 大理石の床が間接照明を冷たく跳ね返し、毛足の長い絨毯が足音を吸い込んでいく。花瓶に生けた白い百合が、甘く冷たい香りを漂わせていた。眼下では、灰色に煙る街を車のヘッドライトが細い光の川となって流れている。

 地上から遠く切り離されたこの部屋で、僕は壱知の伴侶として暮らしている。薬で偽りのヒートを起こし、壱知をこの暮らしに縛りつけたのは僕だ。真実を知っているのは、世界で僕ひとりだった。

 背後で扉の開く気配がし、絨毯を踏む柔らかな足音が近づいてきた。振り返るより早く、温かい腕が後ろから僕の身体を包み込む。背中に広い胸が重なり、湿った髪から石鹸の匂いが降ってきた。シトラスの香水の奥から、冷えた森を思わせる壱知のフェロモンが立ちのぼる。

 窓ガラスに、ダークネイビーのスリーピーススーツを纏った壱知の姿が映り込んでいた。結び目の整ったシルクのネクタイが喉元を締め、袖口から重厚な銀の腕時計が覗いている。まだ乾ききっていない癖のある黒髪が、垂れ目がちの目元に柔らかな影を落としていた。

「気分はどう?」

 耳元に落ちた低い声が、鼓膜を甘く震わせる。湯上がりの熱を残した吐息が耳朶にかかり、首筋の産毛が逆立った。

「調子はいいよ。そろそろ仕事に復帰してもいいと思う」

「ほんとに?」

「ほんと。熱も下がったし」

 壱知が顔を上げ、肩越しにダイニングを振り返った。テーブルの白い皿の上で、半分残ったトーストが冷えて硬くなっている。

「食欲が落ちたままだ。まだ無理だよ」

「でも、いつまでも休むわけにはいかないよ。総務のみんなにも迷惑かけてるし」

「誰も迷惑だなんて思ってない。話は俺が通してある」

「専務にそう言われたら、誰も何も言えないよ」

「言わせないよ」

 冗談めかした響きの奥に、硬い芯が通っていた。背中に回された腕の重みが、答えの続きのように肌へ沈んでいく。

 腕の力がわずかに強まり、ワイシャツ越しの体温が背中へ沁みてくる。大きな手が腰から脇腹へ滑り、薄いシャツの上から肋骨の形をなぞった。

「歩純、こっち向いて」

 顎に添えられた指が、僕の顔を斜め後ろへ導こうとする。近づく唇の気配に、心臓が肋骨の裏で大きく跳ねた。

 僕は首を傾けて唇を避け、身体をひねって腕の輪から半歩抜け出した。

「……逃げた」

「逃げてないよ。……そこまで心配しなくても平気だよ」

 笑ってみせた声が、思ったより掠れて喉に引っかかる。壱知の優しさは、番の印を刻んだ責任から生まれている。罪を隠したまま受け取る口づけは、舌の上で苦く溶けてしまいそうだった。

 空を切った壱知の手が、ゆっくりと下ろされた。垂れ目がちの目元がわずかに細まり、形のいい唇が引き結ばれる。

「心配じゃない。確認してるだけ。昼はちゃんと食べて」

 平らな声の底に、拗ねたような硬さが沈んでいる。

「……わかった。ちゃんと食べるよ」

「よかった」

 安堵の滲んだ声とともに、壱知がもう一度僕を背中から抱き寄せた。襟足を指でかき上げられ、うなじの噛み痕が空調の風に晒される。柔らかな唇が傷痕に押し当てられ、歯が薄い皮膚を甘く挟んだ。

「……っ」

 小さく漏れた息が、窓ガラスを白く曇らせる。噛み痕の奥で疼く熱が背骨を伝い、膝の裏まで甘く痺れていった。

「壱知、くすぐったい……」

「我慢して。キスの分」

 曇りの薄れた窓ガラスの中で、壱知の目が僕の顔をまっすぐに捉えている。光のない黒い瞳が、雨に煙る街よりも深く沈んで見えた。

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  • 愛してないなら抱かないで〜交錯する三つの狂愛。幼馴染たちが落ちた歪な鳥籠〜   第5話 硝子の手錠と拭えぬ罪悪感

    「壱知、もう出るの?」「ああ。もう車が下に来てる」 壱知は腕時計に目を落とし、短く答えた。背中を包んでいた腕がほどけ、肩甲骨に残った温もりが空調の風に冷やされていく。「今日も雨だね」「梅雨だから。外に出るなら、傘を持って」「出ないよ。どこにも」 窓の外へ目をやると、ガラスを伝う雨の筋が灰色の空を細かく裂いていた。振り返ると、手を伸ばせば届く場所に壱知が立っていた。僕は声の震えを喉の奥で押し殺し、幼馴染らしい軽い笑みを口元に貼りつける。唇の端を引き上げる頬の筋肉が、こわばって小さく痙攣していた。壱知にとっての『面倒な義務』が、これ以上増えていくのが怖い。 糊の利いたシャツの襟元から、洗い立ての布の匂いが届く。シトラスの奥に潜む冷えた森の匂いに、噛まれたばかりのうなじが甘く疼いた。 壱知の手が、ゆっくりと僕の顔へ伸びてくる。長い指が前髪を払い、掌が額に重なった。壱知の体温は、いつも僕より少し高い。冷水にくぐらせたあとのようにひんやりとした掌が、額の一点だけを正確に押さえている。「熱はないね」 熱を確かめ終えた掌は、触れたときと同じ静けさで離れていった。額に残った冷たさを追いかけそうになり、僕は太腿の横で指を握りしめる。「だから、平気だって言ったでしょ」「うなじは? まだ痛む?」「少しだけ。……さっき、壱知が噛んだから」「そうだね」 壱知の目元が、悪戯を認めるようにかすかに緩んだ。「昨日の夜、少しうなされてた」「……そうだった? 覚えてないや」「水、飲ませたよ。それも覚えてない?」 記憶の底を探っても、夜の時間は黒く塗りつぶされたままだ。喉に残る微かな渇きだけが、壱知の手から水を受け取った名残のように張りついていた。「……ごめん」「謝ることじゃない」 壱知の指が、乱れた僕の前髪を耳にかけた。耳殻をかすめる指先が、ひんやりと冷たい。「……僕、寝ながら何か言ってた?」「名前を呼んでた」「誰の?」「俺の」「……恥ずかしい」「なんで。嬉しかったよ」 頬に熱がのぼり、耳の先まで火照っていく。壱知の声は、天気を告げるときと同じ平坦な温度を保っていた。「何かあったら、すぐ連絡して。誰から電話が来ても、出なくていいから」「……誰かって?」「会社の人とか。理士とか」 理士の名前に、あの夜ソファで開いた切れ長の目が瞼の裏によ

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